文藝春秋に掲載された、小池百合子氏に北原さんが宛てた手紙が話題になりました。
北原さんは当時の事を懐かしむ一方で、小池百合子氏のカイロ大学卒業の学歴について本当の事を話さないと後悔すると感じていたようです。
かなり踏み込んだ内容でしたので、わかりやすく時系列順に紹介します。
目次
このまま黙って死んだら私に悔いが残ると、小池百合子の学歴詐称について実名告白した「北原百代」さんの手紙の内容とは
文藝春秋に掲載された、小池百合子氏に北原さんが宛てた手紙が話題になりました。
1972年秋 – カイロ大学編入と語学学校
- 北原さんの同居人として、カイロ大学2年生に編入予定の娘・小池百合子を紹介される。
- 19歳の百合子さんがカイロ大学2年生に編入予定と話すも、アラビア語はほとんど話せず、特に勉強する様子もなかった。
- 秋に語学学校に通うも、2回ほどで辞め、日本人留学生Bさんと結婚を決意。Bさんはアラビア語が得意で、カイロ大学入学を支えるためと推測。
1972年11月 – カイロ大学編入確定
- 手紙には、1973年10月からカイロ大学2年生に編入が確定。
- 父親の尽力が実り、コネによる大学への編入が決定。アパートでお赤飯を食べてお祝い。
1973年2月 – Bさんとの同居
- 百合子さんがBさんのアパートに移り、大学の教科書で10月からの学生生活に備える。
1975年末 – 再度の同居希望
- 1975年末、百合子さんがBさんと離婚し、行く場所がなくなったため、北原さんと再び同居を希望。
- ガーデンシティで日本人女性が帰国した後、北原さんは百合子さんを受け入れる。
1976年初め – アルバイトと勉強
- 百合子さんは外交官の夕食を作るアルバイトをし、日中は机に向かって勉強。
- 辞書を借りる場面があり、「辞書も持たずどうやって勉強していたんだろう」と思われる。
1976年5月 – 進級試験の挑戦
- 百合子さんは進級試験に挑むも、7月上旬に不合格の結果を受ける。
- 「先生から、『あなたは最終学年ではないから、追試を受けることができない』って言われた」と報告。
1976年7月 – JALでの仕事
- 進級試験に落ちた後、百合子さんはJALの現地スタッフとして働き始める。
1976年8月 – ハイジャック事件
- 北原さんが旅行ガイドとして参加した飛行機がハイジャックされ、日本でも報道される。
- 百合子さんが「同居する北原さんの安否を心配する日本航空駐在員の〇〇(Bさんの名字)百合子さん」として取材を受ける。
1976年10月 – 日本への一時帰国
- サダト大統領夫人の来日をきっかけに百合子さんが一時帰国。
- カイロ大学文学部社会学科を卒業したと報道される(「サンケイ新聞」1976年10月22日)。
1976年11月 – カイロへの帰還
- 百合子さんがカイロに戻り、晴れやかな顔を見せる。
- 日本の新聞記事を見せ、「カイロ大学文学部社会学科を日本人女性として初めて卒業した」と紹介される。
1976年11月 – 帰国の決意
- 百合子さんが「私、日本に帰ることにした」と告げ、翌日から帰国の準備を始める。
- 別れの晩に、「これ、プレゼント。絶対に人にあげたりしないでね」と模造真珠のブローチを渡す。
別れの言葉
- 百合子さんが「私、日本に帰ったら本を書くつもり。でも、そこに北原さんのことは書かない。ごめんね。だって、バレちゃうからね」と告げる。
といった形で、父親のコネでカイロ大学の2年生に編入した小池百合子氏は、一度も進級することが出来ずに、日本に帰国。
当時カイロ大学に40歳で通っていたサダト大統領夫人との歓迎会から何かが動いたのでしょう。
卒業したことになっています。
これが本当ならかなり無茶苦茶な気がしますよね。
小池百合子の学歴詐称を実名告発した北原百代さんの手紙をわかりやすく紹介|まとめ
この手紙を見る限り、カイロ大学に発行してもらった卒業証書は何だったのかという話になりますよね。
小池さんが、カイロ大学に認められているの一点張りなのは、(本来卒業できていないものの)とりあえず認めてもらったからなのかも……。
また情報が出てきたらもう少し追記していきます。
では。